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Monday, October 28, 2013

[oolong @ oolong] "江戸時代に対する認識が本当なのかどうか、少し考えてみることにいたしましょう。 鎖国は、一般的に三代将軍の徳川家光によって完成した、と教科書では教えています..."

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江戸時代に対する認識が本当なのかどうか、少し考えてみることにいたしましょう。


鎖国は、一般的に三代将軍の徳川家光によって完成した、と教科書では教えています。私も、中・高の日本史ではこのように習いました。実際、徳川家光の時代���������17世紀前半���������に日本人の海外渡航は制限され、また海外貿易も厳しく幕府が管理する、という風になりました。


しかし勘違いされているのは、幕府は一度たりとも「鎖国令」などという法律を作ったことはなく、各種の海禁政策���������人・モノの出入りを制限すること���������を総称して、後世の人間が勝手に「鎖国」という言葉を作ったに過ぎないのです。鎖国という単語が一般的に使われるのは明治時代以降のお話です。「鎖国」は法令や宣言の事を指すのではなく、後世から江戸時代を振り返ったときの状況証拠をさす言葉に過ぎません。


では、実際の「鎖国」下にあった江戸時代というのは、本当に国が閉ざされて、海外からの情報が入ってこなかったのでしょうか。これは大きな間違いといわざるを得ません。江戸時代、日本と海外を結ぶ拠点は「長崎の出島���������と平戸���������」だけ、と思われがちですが、これがそもそもの大間違いで、江戸時代、日本と海外を結ぶ玄関は4箇所存在していたのです。


ひとつは、長崎の出島と平戸です。


これは良しとしてあと三箇所はなんでしょうか。


それは蝦夷���������えぞ���������北海道���������、対馬、琉球の三つです。


では北から順番に見ていきましょう。


まず蝦夷ですが、江戸時代、現在の北海道は蝦夷と呼ばれていたことは知っていると思いますが、正確には現在の北海道は「南蝦夷」とよばれておりました。


じゃあ北蝦夷ってあるの���������と思うでしょう。北蝦夷は、現在の樺太���������サハリン���������の事を指します。ちなみに「東蝦夷」は、現在の道東から東、北方領土を含む南千島全体を漠然とそう呼んでいました。


この当時の「蝦夷」は北海道だけの事を指す単語ではないのです。


この蝦夷は、アイヌ民族が広範に居住しておりました。江戸時代のアイヌは独自の文化を形成しておりましたが、すでに中世の時代から、蝦夷の最南部���������現在の函館付近���������には和人���������アイヌから呼称した日本人���������が居住しておりまして、江戸時代には「松前藩」が成立���������米が収穫できないので、特例で1万石扱いにされた���������します。


アイヌは伝統的に北方から勢力を伸ばしていたロシア人、ツングース系先住民等と盛んに通商がありましたので、彼らを通じ松前藩にも自然とロシアの情報がもたらされることとなります。松前を通じて、アイヌからもたらされた北方情報は、貴重なロシアの情報として幕府に伝えられていたのです。


次に対馬です。


江戸時代、対馬には宗氏���������そう���������が配置され、当時の李氏朝鮮との重要な接点になっておりました。


李氏朝鮮は明、そのあとの清に対しても服属していた属国でしたが、江戸幕府にも朝貢し、有名な「朝鮮通信使」が将軍の代替わり等、要所要所ではるばる陸路と海路で江戸までやってきます。


このときの接待や折衝に当たる窓口は基本、対馬の宗氏であり、対馬は朝鮮に関する外交上の窓口として常に機能し、朝鮮の動向を幕府に伝えました。


現在、竹島が日韓両国で紛争になっていますが、江戸時代、竹島に関連する鬱稜島���������うつりょうとう���������の領有権を定めた「竹島一件」と呼ばれる事件にも、宗氏は深く関与しております。朝鮮通信使は現在、「平和と友好の使者」とされ、あたかも「日本と対等の外交関係」にあったといわれがちですが、これには事実誤認があり、朝鮮は日本に朝貢する異民族、として当時から扱われています。


最後は琉球です。


琉球も朝鮮と同様に、将軍の代替わりごとなど要所で「慶賀使」と呼ばれる使節を江戸に派遣し、徳川日本に朝貢する異民族として扱われていましたが、実際には17世紀初頭に薩摩藩の侵攻を受け、事実上、薩摩の属国になっていました。ただ、完全に併合すると分が悪いので、独立国の扱いにしていたのです。


琉球は他方、明・清との貿易があります���������実際には薩摩が管理していた���������ので、そこから東アジアの情勢というものが江戸幕府に伝えられました。


このように、江戸時代には4箇所、海外との窓口があったことを忘れないでいただきたいと思います。


長崎では「オランダ風説書」という欧州情勢を記述した分析書がオランダ商館長から江戸幕府に届けられ、幕府中枢の中で詳細な検討と分析が行われていました。


イギリスで起こった清教徒革命、フランスのフランス革命、ナポレオン戦争について、など幕府はおよそ発生から1年���������2年程度で知っていた、とされます。インターネットも国際郵便もない時代、わずか1、2年足らずで、遠く離れた欧州の動向を日本が正確に掴んでいた事になります。凄いことだと思いませんか。


そのほかに当時は、フィリピンのマニラにスペイン総督府、インドネシアのバダヴィアにオランダの政庁���������東インド会社の本拠地���������がありましたので、そこからも徳川日本には海外情報がもたらされますし、17世紀初頭に海外に出て行った貿易商人や、漁民の遭難者からの情報���������メキシコなど���������も当然存在しています。江戸幕府が鎖国によって国を閉ざし、海外情報をまったく知らなかった、というのは大嘘で、以上にあげた4つの窓口から当時の日本は海外情報に極めて敏感だったことがわかろうと思います。


特に、17世紀の明の滅亡と清の誕生、は東アジアの地図が一変する出来事として当時の江戸幕府はおろか、知識人にも大変大きな影響を与えております。さらに1840-42年のアヘン戦争で清がイギリスに負けた、という事実は幕府にとって大変な衝撃で、そこから本格的に海防政策���������沿岸防衛���������を講じることになります。


いま、日本版NSCの設置が言われ、海外情報や分析が盛んに言われております。これは凄くよいことであろうと思います。海外情報の分析と収集は、いわずもがな国防に直結するからです。江戸時代、日本は鎖国をし、海外に対して無知で、突然ペリーがやってきてあわてて「開国」し、遅れを取り戻そうとした…という江戸時代に対するこれまでのイメージは、「日本は島国だから情報音痴、外交下手」というイメージと一脈通じるものがあります。


ところが、これはまったくの出鱈目で、江戸幕府は海外に対して、非常に敏感に情報収集をして国防に役立てようとしていたのです。それが薩摩や長州よりも若干遅れていてスローペースだった、というだけの話です。戦後のアメリカ依存の平和ボケした日本より、明らかに江戸時代の徳川日本のほうが、海外動静や情報に敏感であった、といえるのではないでしょうか。


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【古谷経衡】「鎖国」の嘘 | 三橋貴明の「新」日本経済新聞 (via itokonnyaku)




by oolong via MyTFMRSS

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